アディクション・家族のためのカウンセリングルーム

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ユーザーの声

H.Mさん 「ありがとう」

img_illust_002 ありがとう。

 遠藤相談室につながって、7年がたちました。当時の私は、食べ吐きの嗜癖から抜けられずにいました。カウンセリングや自助グループは即効薬ではなかったけれど、私の話を聞いてくれること、同じ仲間に出会えることが嬉しくて通い続けました。
 本当に沢山の人に出会って、愛情をもらいました。

 今は食べ吐きの症状はおさまり、コンプレックスPTSDの症状と共に生きています。自分の原家族で起こったことを、ずっと否認してきました。今は仲間と共にゆがめることなく、見て、感じて、話しています。
  この7年間は、苦しみ、痛み、悲しみ、絶望の連続でしたが、いつも仲間やカウンセラーがそばにいてくれました。私を大切にしてくれる人たちの安心感の中でこそ、辛い感情を受け入れることができた。そして、その感情はずっと抑圧してきた過去のものだ、ということもわかりました。
 今、本当に悲しいトラウマの話をすると、子どもの私がわんわん泣き続けます。3歳位の子が、ただ悲しそうに声を上げて泣き続けます。私は、そういう自分を見て、「ずっと、ずーっとこんなふうに泣きたかったんだ。」と。
  今思えば、これまで何度も子どもの私が出てきて泣きじゃくったことがあるけど、いつも誰かが私の手をにぎって、背中をさすってくれました。私は解離しているけれど、その手の感覚で、現在に戻ってきて落ちつくことができたように思います。この子は、安心できる人の中でしか泣かないんです。

 ト ラウマ症状には苦しんで、「これさえ無くなれば」と思っていましたが、それは食べ吐きに対して思っていたのと同じです。今は、この子に出会えたことを「嬉び」に感じます。泣きたいだけ泣けばいい、私がずっとそばにいるから。この子を愛して、育てていくことが、私が生きることだと思います。だって、今までずっと一人ぼっちで耐えてきたんだから。

 1つの区切りで、カウンセリングを終わりにすることにしました。
私は、本来の私自身を愛する気持ちを知りました。そして、それが原家族の中で生き残るために、根元からゆがめられたことも知りました。
私は、父と母の期待に応える私ではなく、「個の自分」になりたいです。「個の自分」になれるよう、希望を持って人の中で生きていきたいです。私ならきっとできると思います。

 最後に、暗やみの中にいた私と、手をつないで一緒に歩き続けてくれた大和田先生に心からの感謝を込めてありがとう。

K.Mさん 「きっかけは夫のアルコール問題から」

img_illust_001 私は遠藤相談室に出会うことができて、とても嬉しいです。

 つながりのきっかけは、夫のアルコール依存の問題を地域の保健所に相談したことから始まりました。
その中で私自身の苦しさ、ACの問題を語り、つながりができました。それまでの私が今もいたなら、私自身がどうにかなってしまっていたかもしれないと思います。

 今は、自分自身に焦点の当たった問題を見つめ始めることができました。
個別カウンセリングやグループカウンセリングの場で、私自身の精神成長や家族の成長に目を向け、見守りながら、寄り添いつつ、支えられていることを実感しています。以前よりも、気持ちが落ち着いてきていることを感じます。
 今までの生きづらい考え方やクセは折々に顔を出して苦しみますが、相談室で話すことで安心を得ることができています。自分自身を出せる場なんだと実感できています。
 相談室で学んでいる自分を苦しめない新しい生き方、考え方を実行したいと思います。そして、私の家族にも自分を大切に生きること、苦しまない生き方が伝わることを願いつつ過ごしていきたいと思っています。

 私の心が求めていた場所に行きついたんだという実感です。まだまだ自分の課題はたくさんあると思っていますので通い続けたいと思います。本当に心から感謝しています。

Y.Kさん 「自分にはこういう部分があるんだな」

img_illust_003 相談室があってくれてよかったです。
というのも、もともとぼくは本やネットでACを自覚して、じゃあ治療したいと思っていたけど、そういった治療機関が、こちらの遠藤嗜癖問題相談室と大阪のある場所の2ヶ所しか見つけられず、当時は大阪にカウンセリングを受けにいくつもりでした。でも父がこちらを見つけ、ACのグループもあるし、(以前読んだ、ぼくがACという言葉を知るきっかけとなった本に、ACのグループが治療に有効だと書いてあったので)、とりあえず行ってみようということで相談室に来ました。

 相談室では、初回面接で自分史をさかのぼり、教育プログラムでACや依存性の成り立ちについて詳しく説明してくれました。ぼくのやりたかったことができてる感じがしました。というのは、以前通っていた心療内科ではACについて理解がなく、医者は過去が現在に影響しているといった話など全くせず、カウンセリングも「好きに話してください」というだけで、治療の効果を全く感じられなかったからです。

 ACを研究しててくれてよかったです。この分野の研究をしててくれた人がいてくれたからこそ、今適切な治療が受けられるのだと思っています。誰もこの分野に手をつけていな かったら、ぼくも何もわからず、闇に沈んだままだったかと思うと、そんなこと考えるだけでぞっとします。

  回復した人が実際にいて、回復できるんだーと思ったことがありました。相談室に来る前や来てからもしばらくは本当に回復できるのか不安だったし、そんな人がいるなら是非見てみたいとも思っていました。相談室に通い出して半年後くらいでしょうか。カウンセラーに勧められて行った自助グループに、実際にカウンセリングを卒業し、社会の中に身を置いてやっていっている人を自分の目で見ることができました。それから、あー回復ってできるんだー、と思えました。またその人はぼくの回復のモデルになりました。ぼくもその人みたいになりたいし、少なくとも回復できた人がいるという事実がぼくにとっては大きかったように思います。

 相談室に来始めの頃は、少しでもいやなことや思い通りにならないことがあると、爆発して大声で泣きながら叫び散らしたりしていましたが、今はそうすることは全くないとは言えませんがほとんどなくなりました。そういう穏やかな自分になれてきたことを心地よく思います。少しずつでもなりたい自分になれてきていると思います。それでも、その場で表現はしないまでも、内心怒りが大爆発ということはまだとても多くて困っているので、引きつづきこの課題に取りくんでいるところです。

 今までは自分のいやな部分はなくそう、排除しようとしていましたが、やっとここ最近になってその部分をどうにかするより、まず「あ、自分にはこういう部分があるんだな」と観察してみる、ということができるようになってきました。

  対人関係で「あいつ、いやだ」と思うことは今でもよくありますが、よくよく何がそんなにいやなのか見ていったら、実はそのいやな部分は自分にもあって、要するに自分の中にあるイヤな部分を見たくなかった、ということだとわかるようになってきました。以前はただ相手を悪く言うだけでしたが、今では「あれ、これはもしかして・・・」と相手を自分の鏡にして、自分のことを振り返り、気づきにつなげられるようにだいぶなってきたと思います。

 そして最後に、この文章を書きながら、やっぱりぼくは文章を書くとなんか文が堅苦しくなっちゃうなー、かっこつけてえらそうに書こうとしちゃうなーと感じます。こんな自分もとりあえず直面して観察する、ということを今後もやっていきたいと思います。

K.Yさん 「私の気持ちを受け入れてもらえなければ、他の考えが私の中に入ってこない」

img_illust_004 「私の気持ちを受け入れてもらえなければ、他の考えが私の中に入ってこない。」
そんな思いに気がついたのは、つい最近です。

 私が性虐待被害者と知ったのはカウンセリングを受けて何年か経ってから。
その時も性虐待をした人たちに対して、いい人たちという思いが強くて、どうしても恨む気持ちになれませんでした。

 しかし、その話を何回かしていく中、ある時から怒り、憎しみ、恨み、辛さ、悲しみ、どうしようもない嫌悪感が出てきました。
 そんな時カウンセラーは、「安全な場所で私が傷つかないように怒りを出していきましょう」と投函しない手紙を書くこと等教えてくれました。
 グループカウンセリング、個別カウンセリング、仲間、夫に私の気持ちを話し、受け入れられ、私の気持ちに焦点が当てられながら聞いてもらいました。

 私は、祖父母、両親、叔母たちの間で、自分を抑えて生きてきました。
私の欲求とは違う欲求を与えられ、それに違和感をかんじることもなく流されていました。
 子どもが産まれると、自分の中にある物差しですべてを計ろうとし、訳のわからぬ怒りや恨みをヒステリックに子どもたちや夫に向けていき、何が何だか分からなくなっていました。その当時は分からなくなっていることさえ分かりませんでした。
 そして生きづらく生きていることが面倒臭くなっている私がいました。

 カウンセラーは私の中から出てきた感情(ある時は激しく憎しみ怒り、ある時はボロボロに打ちひしがれ、ある時は涙が止めどなく溢れてくる・・・)に一つ一つ耳を傾け、「その気持ちを味わってください」と共に寄り添ってくれました。
 味わうことは辛い。その辛い気持を抱きしめてまた話していきます。
そして、傷ついた心は受け入れられるプロセスを重ね、何時か怒りや恨みは、もういいか・・・、もういいやと思えてきました。

 私の親たちは私の気持ちに寄り添ってはくれなかったけれど、彼らは彼らなりのやり方でしか愛情の表し方を知らなかったんだと。
それが愛情・コミュニケーションの仕方だと思っていたのなら、それはしかたのないことかと。わざと傷つけようとは思っていなかったんだろうと・・・。彼らのしたことは許されないことだけれど。
 あきらめとは違う180°の回転です。そう思ったとたん涙が溢れ、気持ちが楽になりました。

 「よく頑張ってこられましたね。恨みはエネルギーがいりますからね。ご両親と和解できましたね。」とカウンセラーが笑顔で応えてくれました。
 カウンセリングでグループで、丁寧に私の気持ちを共有してくださり、親からもらえなかった言葉をもらえたこと、私自身の中に自分の気持ちを抱きかかえる力をつけてくださったことに感謝します。

M.Iさん 「私たちは壊れてしまったんじゃない。傷ついているだけなんだ。だから癒される必要があるんだ」

img_illust_001ひとりぼっちだったわたしから ひとりぼっちのあなたへ

「私たちは壊れてしまったんじゃない。傷ついているだけなんだ。だから癒される必要があるんだ。」

心からこう思った時から私の回復の道が始まったように思う。だけれど、こう思えるには長い時間が必要だった。私は自分が傷ついていたことなどすっかり忘れていたし、所々、記憶もなかった。私は、私の心と過去に蓋をしてずっと生きてきたから。毎日が地雷のうめてあるジャングルを歩いているようで、助けてくれる人など誰もいなかった。頼れるのは自分自身。自分の傷ついた体を手当するのも、傷ついた体を抱きしめるのも、幼い私の二本の腕しかなかった。だけどいくら腕を背中にまわしても、自分をつつみこむ事はできなかった。明日の朝目が覚めると全てが変わっているはずという祈りにもにた願いも、叶うことはなかった。これ以上、悲しい思いをしないよう最善を尽くすことだけが、生きのびる方法だった。自分を守るために必要な怒りの鎧を着て、感じない心、つらく悲しい出来事が何もなかったように消し去る技を身につけた。武装化して生きてきた。大人になっても人生うまくいっていると思っていた。だけど破綻した。PTSDの発症という形をとって。武装化した鎧の下で、私の悲しみや怒りや恐怖は枯れることなく生きていた。不意に襲ってくる恐怖感、不安発作、現実世界の歪み、フラッシュバック、身体化症状・・・・自分が壊れてしまったと思った。なにより、今を生きることが出来ない事が苦しかった。私は絶望の中にいた・・・・・。

あれから7年。今私は生きている。この7年の歩みは決して単調ではなかった。1つの荷物を降ろして、再び違う荷物を背負って 帰る。そんなことの繰り返しだった。いやにもなったし、つまずいたし、倒れたまんま、起きあがれないと思ったことは数え切れない。だけど歩き続けた。そして、少しずつ楽になっていった。そうすることが出来たのはそこにいつも私を見守り続ける温かな眼差しがあったから。それがカウンセラーという存在だった。まるで山登りのシェルパのようで、根気強く「あなたは一人ではない」と教えてくれた。そのような愛なしでは、歩き続けることなどきっと出来なかった。
今、自分の人生を受け入れ、生きのびてきたことを誇りに思える私がいる。私の周りにはいくつもの温かい眼差しがある。歩き始めたときには真っ暗だった世界に「希望」という光りもさしている。これからも私は、自分自身の声なき声に耳を傾けながら一歩、一歩、歩いていこう。

N.Oさん 「カウンセラーと仲間と一緒に山登りをしているという安心感に支えられて」

img_illust_002さわやかな秋日和の一日、私は外から聞こえる小鳥の声に耳を傾けながら、ゆったりとした気持ちでペンを取っています。思えば10年前の夏、当時中学1年生の二女が拒食症にかかり、あっという間に家族は言葉では表現出来ないほどの不安と混乱のどん底に落ち入りました。当時は拒食症は身近な病気ではなく、まさか我が娘がこの病気にかかろうとは夢にも思いませんでした。日に日にやせ細っていく娘を前にして、何の手段もなく、やっとの思いで病院に入院させることができたものの、この不可解な病気にどう向き合ったら良いのか途方にくれていた時に相談室と出会いました。それから早いもので8年の月日が経ちまし た。この8年の間に、私は相談室の先生とグループの仲間と共に、この病気の理解と、不幸にもこの病気にならざるをえなかった娘への理解と対応の仕方など一緒に勉強してきました。

振り返ってみると、10年の間、娘は2度の低体重のための身体的危機、体重は元に戻ったものの死にたいと思う精神的危機が3度ありました。今思えば家族一人一人がよく今日まで乗り切ってこれたものだと思います。ここまでたどり着いたのも相談室の先生とグループの仲間の存在があったからと思います。相談室の先生の存在は、私の険しい山登りの水先案内人だと思っています。私が不健康な考えに流されそうになった時、健康な生き方に道を修正してくれました。グループの仲間は、何年もの間、いつでも私の話を静かに聞き続けてくれました。グループの中で自分自身のことを語り仲間の声に耳を傾けていると、今まで見えなかったものが色々見えてきました。そして、病気になった娘が小さい頃から持ち続けてきたという孤独と淋しさは、私の抱えていた孤独と淋しさだったことに気づきました。自分が生きることで精一杯の私は、娘の母となっても形式だけの母の役割しかしてこなかったことに気づきました。地道にこつこつと相談室に足を運び仲間と共に座り続けた8年間でしたが、私はこの間に自分を育てる為の山登りを先生と仲間と一緒にしてきたんだなあとつくづく思います。その山はとても険しく一人だったなら、道に迷って出口がわからなくなりあきらめて投げ出してしまったでしょう。でもそこには先生と仲間がいました。私は先生と仲間と一緒に山登りをしているという安心感に支えられて、ここまで山を登ってきました。足下だけを見つめて登った険しい山道も、いまでは、風の音や小鳥の声、道端の草花など一つ一つを楽しみながらと変わってきました。私の変化と共に、あれ程家族4人で一緒に住むのが大変だった我が家でしたが、最近では気持ちよく住めるようになりました。娘も病院の先生の協力を得て病気を治そうと努力しています。長い道のりでしたが、娘の拒食症という病気につき合って、家族一人一人が自分自身を見つめ直すことが出来るようになりました。

K.Kさん 「絶望のまっただ中にいて、なぜかホッと安心できる場だった」

1996年9月、一生忘れることができません。ギャンブルがもとで2千万の借金を背負い、借金取りに追われ、家にも帰れずカプセルホテルを泊まり歩き、絶望のまっただ中にいた私にとって、相談室はなぜかホッとするあんしんできる場所でした。3年近くたった今でもその感覚は鮮明に覚えています。ギャンブル・借金・自分でどうにもならなくなって精算してもらう、これを何回も繰り返してきた自分が、どうしてか3年近くギャンブルもやらずもちろん借金もせず普通に暮らせているのは、妻に薦められ相談室に助けを求め、今まで誰にも言えなかったことを思いっきり吐き出したことがきっかけだったように思います。精神的に楽になり、性格を変える作業はとても難しく一生の課題として少しずつしか前進できないが、生活を変えることは比較的容易にできました。それは相談室での個人面談・教育プログラム・夫婦面談・GANGグループなどとにかく必死に通ったおかげではないかと思っています。特にGANGグループに参加したことは、自分にとって大きなことだったと思います。毎日新しい発見があり、自分を冷静に見つめ直すことは回復の大きな力になりました。GANGグループの仲間・先生に本当に感謝しています。

現在は、月に1回GANGグループにGA(*ギャンブル依存症者の自助グループ)メッセージを運ぶ役割で参加させていただいています。これからも、完治することのないこの病気を少しでも回復していける様に「今日一日」を大切にゆっくり歩んでいこうと思います。

K.Sさん 「24時間共にいて見守られているという感じ」

img_illust_003相談室につながってから約2ケ月、トラウマ治療の枠組みのセッションが始まった。同時に、日誌を書くようになった。週に2回、相談室に届けに行く。必ず感想がもらえることが嬉しかった。セッションのメンバーは、同じような心の傷を持つ仲間とわたしとカウンセラーの3人。「最少単位のサポートシステム」と言われ、その意味づけが嬉しかった。「トラウマ治療だから、本当は24時間共にいる位に安全をはかることが必要。でもそれは難しいから、変わりに…」と日誌を書く理由を説明してもらったとき、「このカウンセラーは24時間共にいることが必要だと思ってくれている!」と、そのことが嬉しかった。言葉にならないときは、絵で、色で、線で、日誌を書いた。気分が変わると、文は途中で切れた。カウンセラーは、よくあれを解読してくれたものだと思う。日誌を書き始めて1ケ月ほど経ったある日の夕方。アパートの床に紙を置き、座り込んで夢中になって日誌を書いていたとき、不意に、背中の後ろ、天井のあたりから、自分が「見守られている」という感じが強烈にした。日誌を書いているすべてのわたし。24時間途切れることなく本当は存在しているわたし。そのわたしを途切れることなく誰かが見守ってくれている。背後からのまなざしに包まれながら、「これはわたしの人生で初めてのことだ…」と、ものすごく深く感じた。見守られること。愛されること。それを体験したことがなかったときは、それがないことすら分からなかった。

K.Yさん 「“人”扱いされちゃった」

img_illust_0044年半お世話になりました。わたしはここに来るまでに10人位の治療者に会いましたが、どうも信じられなかったのです。ここでも最初はそうでした。違ったのは、わたし自身が信じられちゃったことです。わたしも家族も、わたしがまた「フツウの生活」をするとは思っていなかった。精神病患者として10年のキャリアを誇っていましたから。「ケダモノ」扱いされると元気になるタイプです。ここでは、「人」扱いされちゃった。いろいろ変な人として行動するのだけれども、どうも先生は乗ってこないのです。わたしは自分自身の回復を信じていなかったのですが、ここの先生は信じていたようです。ACで閉じこもりのわたしにはわからないことですが、何か見るところが違ったのだと思います。例えば、わたしは、わたしというこわれた家に住んでいたようなもので、もう、どうしようもないと思っていたのですが、大工さんがそれを見るとまだまだ大丈夫、ということなのでしょう。直していくのも順があるようで、屋根と土台と柱と、バランスをとりながら進めていきます。自己流や下手な職人だと屋根直してたら土台が傾いちゃった、なんてことになりまして、そればかり経験していたわたしが回復を信じられなくても無理はなかった。徐々に家が出来てくると欲が出てきて現実離れした欲求が出てくるのですが、そのあたりの忠告もしてくれます。一応住めるようになると、自分の家から引っ越さなくてよかったと思います。自分は壊れていたけど直して見れば案外、「普通の人」であったようです。自分自身も家族も「壊れた家」どころか、廃材としてしかわたしを見ていなかったのですが、ここの先生はわたしを最初から「人」として見てくれていたのだと思います。ここでは現在の問題と過去の問題とを、同時に扱ってもらった感じがします。精神科にもずいぶん通いましたが、医者は現在の問題(朝起きるのは?仕事に行くには?)を看てくれるのですが、わたし自身は過去の問題(あいつが悪い、いや、オレが悪かった)にとらわれているので、チグハグな感じのまま年をとってしまいました。わたしは、屋根(現在)と土台(過去)がともにゆがんだ家に住んでいるようなもので、それを直していくのは両方同時でないといけなかったようです。まだ、修理は続いています。なにかあると、少しだけ、また診てもらうことがあります。しかし、普段の管理は自分でどうやらできるようになったかと思います。それに、内装までは先生にお願いしようとは思わない。これは自分の楽しみです。たまには顔を出しますので、どうぞよろしく。